2014年10月1日水曜日

マッカーサーを叱った男のケツモチはイギリス系(w





・・・ってのは実は当然の話なんですよ。(爆wwwwwwww




ほとんどの日本人は理解できてませんが白人社会においてたとえ白人じゃなくても

白洲次郎のケツモチ@イギリス系>>>>>>マッカーサーのケツモチ@スコットランド系

なわけで立場的には

白洲次郎>>>>>マッカーサー

なんですよ。(爆wwwwwwwwwww


で、結果的に白洲次郎のお陰で日本は米帝の完全な植民地にならずに済み、その後奇跡的な経済成長をとげたわけですが、それは米帝の最終ケツモチでもある白洲のケツモチ@イギリスのお陰なわけです。(爆wwwwwwwwwww


そして、白洲のバックのイギリスの人脈の権力の源はイギリス王室でも大英帝国でもフリーメーソンでもILLUMINATIでもユダヤでもなくGODなわけです。(爆wwwwwwww


要するにマッカーサーが臆したのは「日本人白洲次郎」ではなく最終的にバックがGODに繋がてるイギリス人のオトモダチの東洋人、白洲次郎だったわけです。(爆wwwwwww


仮に白洲次郎のイギリスの人脈が少しでも異なってたら日本は完全に米国の言いなりに成らざるを得なかったでしょうな。(爆w




だって韓国人のケツモチはフランス(カエル)ですから。(爆wwwwwww





、、、(爆wwwwwwwwwwwww

54 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

あっち側、のマッカーサーに誰がブレーキをかけたのか謎だったんですが納得

ミネ さんのコメント...

>殆どの日本人は
現在TOC対象となられてる組織なら
誰の縁故で位が決まって後先なんぞ2の次、関係ない
一般はアホのように先か後かで先輩後輩で全てでいるから戦国時代すら意識になく現社会だけでいると確かに殆どは理解できないかもしれないね

GODは次郎だけケツ持ってたのかな
文平さんにもだったのかな

匿名 さんのコメント...

マッカーサーと天皇のツーショット写真について、一般に流布されている写真のほかにもあった、とか池上さんが大げさに言って番組で解説しているが、それはもう、だれでも便利な機械で見ることができるのに、不思議な編集するね

匿名 さんのコメント...

1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定。しかし302空司令の小園安名大佐は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張し、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなど、厚木飛行場の部隊は反乱状態に陥った(厚木航空隊事件)。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐などが説得にあたるも、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった[4]。

8月18日、小園大佐は当時罹患していたマラリアにより、40゜C近くまで発熱し、興奮状態が続いたため、8月20日に航空隊軍医長の手で鎮静剤を打たれ、革手錠をかけられ野比海軍病院(現在の国立病院機構久里浜医療センター)の精神科へ強制収容された[4][5]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/厚木海軍飛行場

連合国に降伏して戦争はもうおしまいだと言われたらおしまいであるはずなのに
特攻隊は出撃する、厚木飛行場にマッカーサーが着陸するなんてとんでもない、ベトナムの独立、アジアの解放に貢献するんだということなどが、武士道的な正義に美徳を見いだして正当化されていくと
ちょっと混乱してしまう
丁寧に整理して説明する必要がある
血税でベトナムに戦後補償した経緯も日本人は弁えておかないと変
ある意味では日本の降伏を受け入れなかった結果ともいえなくもないベトナムでの決断を
美談一色で評価することは危険
菊統制は戦時下並みで、悪影響は教育や労働環境や休暇など社会全体を不自由な方向に蝕み続けていることを否定していては、この国に未来が無い
祝日が多すぎて平日の労働に負担が増え休日は混雑、ふざけてる

匿名 さんのコメント...

20 世紀初頭、ヨーロッパのカーレースを席捲したイギリスの名車、ベントレー 3リッター
この最高級のスポーツカーに乗り、ヨーロッパを駆け巡った日本人がいました
完璧な英語を操るその人は、日本で最初にジーンズをはいた男ともいわれ、晩年には世界的デザイナーの三宅一生のモデルともなったダンディーな人物です
白洲次郎
身長、185センチ
端正な顔立ちと抜群のファッションセンスを持ち合せた男でした
しかし、白洲次郎にはもうひとつの顔がありました
政治と経済の両面で、戦後日本の復興を推し進めた陰の立役者だったのです
昭和20年8月、敗戦国日本は、マッカーサー率いる連合国軍総司令部、GHQの占領下に置かれました
民間人だった白洲は、ときの総理大臣、吉田茂に抜擢され、GHQと日本との交渉の最前線に向かいます
戦後日本の枠組みを決める憲法の改正
GHQは自ら作成した憲法案を日本政府にのみこませようとしました
しかし、あくまで日本人自身による改正をめざした白洲は、GHQにさいごまで抵抗します

われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない

白洲は日本をいち早く自立させるため、荒廃しきった日本経済の立て直しに力を注ぎました
しかし、ここでもその方針をめぐって、GHQと衝突
白洲は、たとえ最高権力者マッカーサーに対しても、自らの信念を曲げませんでした

宮澤喜一(元内閣総理大臣):彼は占領者であっても、まちがったことはまちがっていると
そういう考え方ですよ
占領者だからといって、容赦しないと

GHQから「従順ならざる唯一の日本人」とよばれながらも、白洲は戦い続けました
そして、敗戦から4年後、貿易立国による日本再生をめざし、通商産業省を設立
経済大国として飛躍する礎を築いたのです
そのとき れきしが うごいた
今日は占領の屈辱をバネに、日本の復興に命をかけた男の激動の人生を追いかけます

略(長寿番組となった自負を語る内容で本編に無関係)

今日の主人公は、この人です
白洲次郎です
えっと、どんな人だったかなという向きもおありかもしれません
そうですね、ひとくちに言うと、極めて型破りな人物でございます
ちょっと、あちらをご覧いただきましょうか
これは1924年製のイギリスの高級車ですね
ベントレー3リッターです
白洲個人所有のものです
これを買ってですね、彼はヨーロッパじゅうを一周したんですね
当時、最高時速は150キロだと、こういいますから、そんな日本人は、それまでいませんでした
日本人ということでいえばですね、彼はジーンズをはいた初めての日本人だというふうにもいわれています
伸長、185センチ、そして、あのマスクですから、晩年には、彼は三宅一生さんのファッションモデルにもなったという、こういう経歴の持ち主でもございますが、彼は同時に、敗戦後の日本の行方を決めたですね、たいへん重要な人物のひとりでございました
今日の「その時」は、昭和24年5月25日といたしました
この日は、戦後の日本の経済成長の原動力となった「通商産業省」、今は名前が変わっていまして、「経済産業省」になっておりますが、旧通産省が誕生した日でございますが、その通産省をつくったのが、この、白洲次郎なんでございますね
今日はまずですね、この白洲次郎が敗戦後の日本に、どのように登場してきたのか
そのあたりからはなしを起こしていくことにいたします

ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

昭和20年8月15日
国土を焦土と化し、太平洋戦争は終わりを告げました
その15日後、厚木飛行場に、敗戦国日本の占領を指揮する人物が降り立ちます
連合国軍総司令部、GHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーです
マッカーサーは着任するや否や、日本を再び戦争が起こせない国につくりかえるため、軍事力を解体し民主化を徹底させる指令を発していきます
(マッカーサーは日本の非軍事化と民主化を推し進めた)
逆らう者には公職追放も辞さないその絶対的な権力に、敗戦国日本の政府は平身低頭
従うしかありませんでした
12月、GHQと政府と各省庁との連絡のために設けられた「終戦連絡中央事務局」に、一風変わった男が入ってきました
白洲次郎、当時、43歳です
抜群の英語力、アメリカ人にも引けを取らない長身
しかし、なにより、GHQの目を引いたのは、その態度でした
クリスマスの日、昭和天皇からの贈り物を届けるためマッカーサーのもとを訪れました
「適当に、そのへんにでも置いてくれ」
ぞんざいに扱うマッカーサーに、白洲は激怒します
「天皇からの贈り物を、『その辺に置け』とは、何事か」
その剣幕に、さしものマッカーサーも慌てて謝ったと言います
最高権力者にさえ物怖じしなかった白洲にはひとつの信念がありました

「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」

当時の白洲について、GHQに共に出入りしていた辰巳栄一が語った録音が残されています

「指令部にね、いろんな人が来るわけなんですよ
ところが、だいたいの者が、頭下げたり、機嫌を取ったり、物を持って行ったりですね
白洲さん、それを非常に憤慨しておったわけなんですよね
もう、とにかく、理屈にあわんこと、将来のために良くないという理由があるっていうと、なんでも、どんどん言われるわけですよ
それで、とにかく白洲さんというのは、GHQ内での評判になってましたよ」

イエスマンばかりの日本政府の中で、はっきりモノを言う白洲次郎を、GHQはこう記録しています
従順ならざる唯一の日本人
明治35年、白洲次郎は兵庫県芦屋の実業家の家に生まれました
こどものころから喧嘩っ早く、学校(第一神戸中学校時代の写真)の枠に嵌らない型破りのわんぱく少年でした
19歳のとき、イギリスに渡航し、名門ケンブリッジ大学に入学
7年にわたるイギリス留学で、白洲は貴族階級の学友たちと交流を深めました
そこで身につけたのが、英国紳士の伝統でした
昭和3年、日本に帰国した白洲は、伯爵樺山家の令嬢、正子と結婚
貿易業に携わり海外を飛び回る生活を送るようになります
やがて、白洲は自らの運命を大きく変える人物に出会います
妻、正子の実家、樺山家と親しかった外交官(駐英大使)吉田茂です
吉田は軍国主義に突き進む政府に批判的であったため、軍部から危険人物とみなされていました
しかし、国際情勢への深い洞察から反戦を貫く吉田の姿勢に、白洲は深く共鳴します
吉田もふらっと現れては、歯に衣を着せず正論を主張する白洲に心を許し、24の年の差をこえた友情を育んでいきました
昭和16年、日本は太平洋戦争に突入していきます
日本の敗戦を予測していた白洲は、妻、正子に告げました
「俺、農業をやるよ」
やがて日本は食糧不足になると見越していたのです
白洲次郎が隠棲した家、武相荘
武蔵と相模の国境いにあることに、武相荘ということばをかけて名づけました
ここで、白洲は農作業に専念します
しかし、時代は彼を放ってはおきませんでした

匿名 さんのコメント...

敗戦の翌月、吉田茂は外務大臣に就任しました
吉田の仕事は占領政策を行うGHQと日本政府の仲立ちをすることでした
この最も厄介な任務の現場責任者として吉田が抜擢したのが、白洲次郎だったのです
日本の民主化を急ぐマッカーサーは、戦前の明治憲法を改正して新しい憲法をつくることを日本政府に命じました
政府は国務大臣の松本烝治を中心に、新しい憲法の草案づくりを開始します
しかし、松本がすすめた憲法改正案(松本烝治 「憲法改正私案」)は、これまでの明治憲法の枠組みに縛られたものでした
終戦連絡事務局の責任者としてGHQ高官に接していた白洲は、中途半端な憲法改正では、GHQの介入を招くと危惧していました
白洲は松本に忠告します
「GHQの考えている内容は、先生が考えているほど生易しいものではありません
少なくとも、天皇の大権については、大幅に制限を設けないといけません」
「わたくしには、できない、そんなことをすれば、わたくしは殺される」

昭和21年2月13日、日本政府のつくった憲法改正案についてGHQ側に説明する会合が開かれました
白洲は吉田外務大臣、松本国務大臣と共に出席します
GHQからは、民生局長のコートニー・ホイットニーと民政局次長のチャールズ・ケーディスが出席
日本の民主化を推し進めていたGHQ民生局の最高幹部です
松本が説明を始めると、ホイットニーはそれを遮り、いきなり切り出しました
「あなたがたの憲法改正案は自由と民主主義の観点からとても容認できない
ここに、我々が持参した憲法案こそ、日本人が求めているものである」
GHQは日本政府に憲法案の作成を命じる一方、わずか1週間の突貫作業で、密かに独自の憲法案を作成していたのです
このGHQ案には、天皇の位置づけを明治憲法と全く異なるものに変えるなど、日本側の想像を超える条文が盛り込まれていました
息をのむ日本側に、ホイットニーはさらに言い放ちました
「本案は天皇を護る唯一の方法である」「白洲手記」より
凍り付く日本側
強気で知られる白洲の様子を、GHQの記録は次のように伝えています
「白洲氏は、何か異物にでも腰を下ろしたかのように、思わず姿勢を硬くした」(ホイットニーの証言より)
白洲が通産省を創設する3年前のことでした

--ゲストのご紹介です
証券会社にお勤めで金融の第一線でご活躍中でございますが、その一方で、作家としてですね、去年、この白洲次郎の伝記小説を上梓なさった北康利さんでいらっしゃいます
どうぞよろしくおねがいします
白洲次郎、GHQにとって、従順ならざる唯一の日本人という白洲がですね、あのGHQに対して筋を通す人間でいられたっていうか、いられ続けた、なぜかって、たいへん興味があるんですが

あの、実は白洲っていうのはですね、ひとつ、彼の口癖がございまして、これは有名でございますけれども、Principle という言葉でございます
日本語にするのは非常に難しいんですけれども、「筋」ですとか、あるいは、「生き方」っていうことだと思います
彼は、こうでないと正しくないんだっていう、一種の美学ですね、それを持っていたと思います
しかし、まあ、筋を通す人っていうのは、いろいろいますけれども、まあ、マッカーサーというのは、当時、神にも等しい存在と言われていましたから、彼を叱り飛ばすというのは、まあ、桁外れにすごい人だったというふうに、わたしも思います

--吉田茂が彼と一目会って気脈を通じ合ったっていうのも、つまり、吉田茂してみれば、自分よりも、ふたまわりも下の男ですよね

はい

--それと、こう、気脈を一瞬にして通じ合ったっていうのは、そういう点にあるんでしょうねえ

ええ
白洲次郎は、さきほどのビデオでもございましたけれども、英国で教育を受けています
やはり、ご存じのとおり、アメリカは英国の元植民地ということがございますんで、やはり、その、元植民地、ちょっと舐めてかかっているくらいのですね、感じが、白洲にあったんじゃないかと思うわけでありまして、やはり、のんでかかるくらいの人材ではないと、この強大な権力を持っているGHQに言うことを言うっていうことはできないんじゃないかというふうに、わたしは思うわけですね

--さて、そのGHQからですね、その憲法草案を示された吉田茂や白洲次郎はですね、それを見て、もう、びっくりするわけですよね
びっくりというか、呆然とするわけでございますが、しかし、そこは反骨の人、白洲次郎ですから、そのまま黙ってはいなかったのでございます

匿名 さんのコメント...

自らつくった憲法案を性急に受け入れさせようするGHQ
会合のあと、白洲は民生局長ホイットニーに手紙を書き抵抗を試みています

GHQ案も日本案も、民主化を目指す点で目的は同じものです
しかし、選ぶ道に大きな違いがあります
GHQの道は航空路のように一直線です
日本の道は、ジープでなければ通れないようなでこぼこ道です
急激な改革は、決して、日本では成功しません

元内閣総理大臣、宮澤喜一さん
占領期に白洲と親交のあった宮澤さんは、白洲が抵抗を貫く理由を、本人からよく聞いたと言います

これはね、必要以上に抵抗しておかないと、後世、必ず批判を受けると
とにかく、これだけやったんだなあということを、後世の人がわかって、はじめて納得すると
そういう哲学が、彼に、いつも、ありましたね

じっくり憲法を練ろうという白洲の主張は、通じませんでした
ホイットニーは「作業を遅らせることは許さない」と、さらに脅しをかけてきます
昭和21年3月4日、松本国務大臣と白洲は、できるだけGHQ案に添って憲法草案を書き直し、GHQに持参しました
しかし、民生局次長、ケーディスは、この草案をにべもなく突き返します
GHQ案を無視しているというのです
憤慨した松本は席を立ち、帰ってしまいました
ケーディスは残った白洲たちに、GHQ案に基づいて明朝までに草案を書き直せと命じました

ことの重大なるに驚き、松本国務相の出席を電話にて懇請せるも、病気の故を以って拒否
書記官長も出席せず
「白洲手記」

出席しない閣僚たちに憤りながらも、白洲に嘆く暇はありません
残された日本人のスタッフは、僅か3人
白洲たちは、できるだけ日本人に受け入れやすい日本語を探りながら憲法草案の翻訳を始めました
第一条、 天皇は国家のシンボルとする
白洲たちは、シンボルに「象徴」という言葉をあてました
作業は徹夜ですすめられ、明くる5日、日本国憲法の原案はできあがったのです
白洲は自らの手記に、この憲法こそ、敗戦国の厳然たる現実を露出したものだと悔しさを滲ませています(敗戰最露出ノ憲法案ハ生ル)

「今に見ていろ」という気持ち抑えきれずヒソカニ涙ス

昭和21年5月、吉田茂は内閣総理大臣に就任
GHQは吉田内閣に荒廃した経済の安定を担わせました
この年、都市には失業者が溢れ、インフレによる異常な物価高騰が、人々の暮しを追い詰めていました
特に深刻だったのは食糧難です
前の年の大凶作も重なり、全国で餓死者が1000万人出るといわれたほどでした
GHQは日本政府に経済の安定を担う機関を設立させます
経済安定本部です
吉田の依頼によって、白洲は経済安定本部のナンバー2である次長に就任します
白洲は、今度は経済の再建による日本の自立を目指します

吾々の時代に戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか
日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う

GHQが経済安定本部に課した政策は、物価高騰を抑えるため、あらゆる物資に公定価格を定める一方、供給を安定させるため、国内生産も国が統制するというものでした
しかし、この統制経済に対し、吉田茂は否定的でした

彼らが描いた青写真を日本で実験してみようという野望に満ちたものであるが、敗戦後の人心では、権力的な統制は中々難しい(「回顧十年」より)

実際に公定価格は闇物資の横行によって、すぐ崩れてしまいました
統制経済では日本人の自活はおぼつかないと考えた白洲は、経済安定本部を「アンポンタンの『安』『本』」と呼び、見限っていきます
昭和22年になると、インフレに見合った賃金の上昇を要求し、全国の労働者によるストライキの気運が高まります
吉田が真剣に統制経済に取り組んでいないとみたマッカーサーは、政権交代を見越して、吉田に解散総選挙の実施を促しました
昭和22年4月、総選挙の結果、社会党が第一党になりました
吉田の自由党は第二党に転落
吉田内閣は退陣を余儀なくされます
白洲はこれを機に経済安定本部を辞め、再び野に下りました
それは、白洲が通産省を創設する2年前のことでした

--白洲の言葉を借りればね、戦争放棄は、新憲法の Principle として、たいへん立派だったけれども、しかし、全体的に、あれはGHQ主導だったんじゃないかと、これは、彼は悔しかったでしょうねえ

そうですねえ、まあ、彼の悔しさっていうのはですね、やはり、公文書でありながら、「今にみていろ、ひそかに涙す」
まあ、これは、あとにもさきにもですね、この文章ぐらいしかないんではないかと思いますね
おもしろい話があるんですね
家に帰ってからですね、まあ、白洲正子さんが、こう、一緒に夜、聞いていると、「シャラップ」、要するに「黙れ」ということをですね、英語で彼は寝言を言うんですけれども、それくらいにストレスが溜まっていたという話が伝わっています
ただ、冷静に戻ったあとにですね、彼は今回の新憲法の戦争放棄という Principle は、たいへんに立派なものであるということを言っています
ただ、彼にとっては、そうは言ってもですね、日本人の手でつくれなかったっていう気持ち、この悔しさっていうのはずっと尾を引いていたんじゃないかなあというふうに思いますね

--その悔しさをバネにですね、今度は、彼は、日本の経済の復興、これに力を入れるわけですね

やはり、その、彼はですね、おそらく、憲法はGHQにしてやられたと
そのときにですね、彼の頭の中には、たぶん、「独立」っていうですね、二文字が、たぶん、浮かんだろうと思います
独立のためには、やはり、国力をつけないといけない、経済復興ですね
そのために、自分は全力を尽くしていこうと、まあ、こういうふうになったんじゃないかなあっていうふうに思います

--白洲次郎とGHQとの戦いっていうのは、まだまだ続くわけでございますが、しかし、時代がですね、まあ、そういう白洲を後押しする
そのなかで、みなさん、いよいよ、今日の「そのとき」を迎えるんです

匿名 さんのコメント...

昭和22年6月、GHQの期待を担って片山哲内閣が発足しました
しかし、経済は好転することなく8ケ月で内閣は総辞職
GHQは次に民主党の芦田均に内閣を引き継がせます
しかし、まもなく内閣を揺さぶる事件が起こります
芦田政権を担う政治家、官僚が次々に逮捕された贈収賄事件が明るみに出たのです
昭電疑獄です
10月、芦田内閣は総辞職
ここに至り、吉田茂の政権返り咲きを求める与論が高まりました
ところが、ホイットニーとケーディスが率いるGHQ民生局は、この動きに反対します
吉田の首相就任を阻止しようと、吉田の率いる民主自由党の内部分裂の画策を始めたのです

これは内政干渉ではないか
GHQの職分を超えた横暴だ

憤慨した白洲は反撃に出ます

連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)組織図の画像
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/kenpo_ghq.html

白洲はGHQ内で民生局の独走に反発していた「参謀第二部」に接近します
そして、この「参謀第二部」に周到な根回しを行い、民生局による内政干渉を阻止するように働きかけたのです
この結果、マッカーサーもGHQの総意として「吉田首相で問題ない」と確約します
この一件で、GHQ民生局は急速に勢力を失っていきました

昭和23年10月、第二次吉田内閣が発足
吉田は出口の見えない経済復興のため、再び、白洲を起用します
白洲が就任したのは、貿易庁長官
貿易庁は、当時国営だった貿易を管理する役所でした
白洲は今度こそGHQの統制経済から離脱し、日本経済の自立を果たそうと覚悟を固めていました
ところが、白洲が貿易庁に初登庁した日、見知らぬ業者から次々に就任祝いと称する贈り物が届けられてきます
貿易庁には、輸出の許認可をめぐって利権が集まり、汚職が庁内を覆っていました
白洲は、綱紀粛正に乗り出します
徹底的な調査で汚職官僚を割り出し糾弾していきました
当時の貿易は政府の補助金に依存していました
コストの高い日本製品を安価に輸出し、輸入品を安い公定価格で売る
その両方に補助金が使われていたのです
しかも、その政府補助金の大部分が、アメリカの援助物資を売却した資金によって賄われました
日本の輸出産業は、アメリカの援助のもと、いつまで経っても国際競争力が育たない状態に置かれていたのです

たとえ厳しくとも、自由経済のなかで、日本の産業力を回復させるべきだ
白洲は、そのために、貿易庁だけでなく、本省の商工省をも解体し、新たな省庁をつくる構想を抱きます
慌てたのは官僚たちです
商工省の幹部は、白洲の動静を監視するために、一人の敏腕官僚を送り込みました
当時、商工省物資調達課長だった、永山時雄です
白洲は永山に語りかけました

今、日本に最も必要なのは、輸出産業を振興して外貨を得、それで資源を購入して経済成長に弾みをつけることだ

永山は白洲の構想に圧倒され、その場で白洲を支えようと決意しました

声:永山時雄 聞き手:青柳恵介
わたしは元来が商工省の人間ですから、わけがわからずにかきまわされちゃかなわない
また、そんなことはさせない
こういうようなことで、白洲さんとの接触はしたことは事実ですけどね
まあ、あの人の人柄っていうのは、付き合えば、みんな理解をすりゃあ、白洲党になりますよ
そういう人柄ですからね

昭和24年2月1日、孤軍奮闘する白洲に強力な助っ人が現れます
アメリカ本国政府が派遣した経済顧問、ジョセフ・ドッジです
ドッジはGHQが主導してきた統制経済を、補助金とアメリカの援助に寄りかかった危うい経済だと批判
日本は貿易に拡大によって、国際経済の中で自立すべきだと唱えました
ドッジの来日を好機ととらえた白洲は、一気に新しい省庁の実現を目指します
新しい省の名は、通商産業省

通商産業省(通商局・通商振興局・通商企業局・通商繊維局・通商雑貨局・通商機械局・通商化学局・通商鉄鋼局)--画像

すべての局に「通商」という名をつけ、貿易重視の路線を鮮明に打ち出す
さらに、海外貿易を推進するため、外務省から経験豊かな外交官を大量に人事異動させる
僅か4ケ月で、白洲はこれまでの省庁の枠を超えた全く新しい官庁を具体化していきます
日本人の力による日本の復興
GHQに阻まれてきた白洲の志がようやく実を結ぼうとしていたのです

そして「そのとき」、昭和24年5月25日、白洲の夢をのせた通商産業省が発足しました
通産省は貿易立国をめざし、輸出産業の育成を図るために、数々の産業政策を実施していきます
その結果、日本の産業は優れた国際競争力を獲得
戦後の荒廃から奇跡的な復興を遂げ、さらに高度経済成長を実現する原動力になっていったのです
しかし、そのとき、白洲の姿は通産省にありませんでした
白洲は通産省の設立を見届けると、きっぱりと公職を離れ、政治の世界から去っていたのです
風の男
白洲は、そうよばれるようになりました

匿名 さんのコメント...

--風の男って、かっこいいですね

そうですね

--さあ、北さんは、今日の「そのとき」を、どう、おとらえになりますか

はい、やはり、通産省の創設というのは、敗戦国日本という、いわば、瀕死の病人にですね、ここしかないというタイミングで打ったカンフル剤だというふうに思います
そして、それは、白洲次郎という、まあ、この男がですね、まさに、先見性と信念と、そして行動力、これで打ち立てた金字塔だというふうに思います
今日は、スタジオにベントレーが来ています(X.T 7471)
彼は、ただ単に、車が乗るのが好きだというのだけではなくて、知識も非常にありまして、大手の自動車メーカーにいろいろなアドバイスをしています
そのなかの言葉で、わたしが好きな言葉に、「No Substitute な車を目指せ」という言葉があります
No Substitute これは、「かけがえのない」という意味なんですね
かけがえのないもの、まあ、彼にとっては、知人であったり、家族であったり、そして、やはり、この、日本という国だったんだと思います
やはり、その、戦争の悲惨さということは、よく話題になるんですけれども、占領の屈辱ということは、あまり話題にならないんじゃないかなというふうに思います
ところが、この占領の屈辱をバネにして、その日本の奇跡の復興を実現させた、まあ、そういう人たちがいるということをですね、やはり、戦後、日本の原点として、われわれは、あの、もう一回、考え直さないといけないんじゃないかなというふうに思います

--どうもありがとうございました

ありがとうございました

匿名 さんのコメント...

白洲次郎は、この通産省が誕生したことを見届けますとですね、すべての公職を離れます
風のように去っていきます
しかし、そのあと、彼は日本が独立するときにですね、非常に重要な存在感を示すわけでございます
このことについては、あまりご存じない方のほうが多いんじゃないかと思います
今日は、そのエピソードをご紹介しながら、お別れしたいというふうに思います
今夜もご覧いただき、ありがとうございました

昭和26年8月31日、サンフランシスコ講和会議に出席するため吉田茂率いる全権団が出発しました
このとき、一民間人になっていた白洲次郎は、吉田に請われて特別顧問として随行します
講和条約の受諾演説を行う2日前、吉田は外務省が用意していた演説原稿に目を通してほしいと白洲に頼みました
ところが、GHQの占領に対して美辞麗句を並べ、しかも、英語で書かれたその原稿を見て、白洲は顔色を変えます

講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず
その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談したうえに、相手方の言葉で書くバカが、どこにいるか

白洲の一喝で、原稿は急遽、英語から日本語に改められ、内容も書き直されることになりました
スタッフが分担して和紙に記入し繋ぎ合わせた原稿は、30メートルにも及びました

この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります
日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します

吉田茂による講和条約受諾の演説(昭和25年9月7日)は、堂々と日本語で読み上げられました
調印式の晩、人前で滅多に涙を見せなかった白洲は号泣したと伝えられます

講和会議に出席した宮澤喜一さん
敗戦というものが終わって、ついに講和が調印されたと
ウィスキーを飲みながら、やあやあと言っている間に、自然に、涙が出たということですからね
占領っていうのは、屈辱ですからね
長い間の何年の屈辱がすんだと
ようやく、講和ができると
そういう意味での涙ですよね

こののち、白洲は東北電力の会長をはじめ、実業界の要職を担いながら、戦後の経済成長を支え続けました
そして、昭和60年11月28日、83歳で、この世を去ります
葬式無用、戒名不用
型破りな人生を駆け抜けた男にふさわしい遺書が残されていました
晩年、白洲が戦後の日本について語った言葉です

私は「戦後」というものは、一寸やそっとで消失するものだとは思わない
我々が現在、声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々の本当の自分のものになっているとは思わない
それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと、自己満足してもよかろう

平成18年4月5日(水)22:00~22:43
マッカーサーを叱った男 ~白洲次郎・戦後復興への挑戦~

資料提供
旧白洲邸武相荘
外務省
国立国会図書館
外務省外交史料館
共同通信社
毎日新聞社
文殊社
テレコムスタッフ
講談社
新潮社
三宅一生デザイン文化財団
第一生命保険相互会社
兵庫県立神戸高等学校
大阪市立中央図書館
BBC Motion Gallery

青柳恵介
北畑隆生
浅井良夫
河野康子
桶井清春
濱谷浩
辰巳敏彦
永山治
操上和美
濃野滋
片野恵介
赤塚一

リサーチャー 岩本善政 奥村友紀
編集 大澤英樹
取材 石井裕一郎
ディレクター 谷口雅一
制作統括 増田秀樹

匿名 さんのコメント...

>2017年11月14日 21:15

×「指令部にね、いろんな人が来るわけなんですよ
○「司令部にね、いろんな人が来るわけなんですよ

匿名 さんのコメント...

◎ “マッカーサーを叱った男” エピソードのソースは存在するのか、という話
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50800274.html

匿名 さんのコメント...

US-Japan Relations during the Korean War - Page 126 - Digital ...
https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc278651/m1/134/?q...
During the Korean War, US-Japan relations changed dramatically from the occupation status into one of a security partnership in Asia. When North Korea ...

US-Japan Relations during the Korean War - Page 112 - Digital ...
https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc278651/m1/120/?q...
During the Korean War, US-Japan relations changed dramatically from the occupation status into one of a security partnership in Asia. When North Korea ...

US-Japan Relations during the Korean War - Page 184 - Digital ...
https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc278651/m1/192/?q...
During the Korean War, US-Japan relations changed dramatically from the occupation status into one of a security partnership in Asia. When North Korea ...

匿名 さんのコメント...

EXEMFTIONS (2)(22 Priv.-:0,/ ocoassified and Approved for fielabc by the Central Intelligence Agency Date: (2) NAZI WAR CRIMES D
PDF https://www.cia.gov › readingroom › docs
_. Another reason for HATO/AMA's anger was Jiro SHIRASU, who several years prior to that time tricked HATOYAMA in connection with HATOYAMA's meeting with. John GUNTER• This point, the writer is afraid, SHoRIKI ...

匿名 さんのコメント...

konoe kabayama yoshida shirasu

匿名 さんのコメント...

影響力の強い媒体で宣伝効果抜群の功罪
色をつけかたと省略の範囲の自由な選択と編集
どちらにせよ、なんでもそうですが、こちらのアンテナ次第

匿名 さんのコメント...

[PDF]the pruge in occupied japan - a study in the use of civilian agencies ...
www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/043381.pdf
Items 1 - 7 - ment, and one joined another company associated with the Oji mill. ...... efforts of Jiro Shirasu, whereas the Socialist and Democratic parties were ...

匿名 さんのコメント...

Pitfall or Panacea: The Irony of U.S. Power in Occupied Japan, 1945-1952
https://books.google.co.jp/books?isbn=1135937737
Yoneyuki Sugita - 2003 - ‎History
The Irony of U.S. Power in Occupied Japan, 1945-1952 Yoneyuki Sugita ... that the Korean War would induce the Japanese to accept the rearmament program. ... Talking with Shirasu Jiro, aide to Yoshida, Fearey had the impression that ...

John Foster Dulles and the Diplomacy of the Cold War
https://books.google.co.jp/books?isbn=0691006229
Richard H. Immerman - 1992 - ‎History
Dulles "wanted it understood in Japan that we were not thinking entirely in military and ... TM Given the hostilities in Korea, this time around Dulles expected Yoshida to be ... over security matters and thus more favorable to Japanese rearmament. In fact, Yoshida's confidant, Jiro Shirasu, had told Fearey that Article 9 of the ...

匿名 さんのコメント...

rearmament japan korean war yoshida shirasu

匿名 さんのコメント...

Gordon, Martin (7 of 21) National Life Stories: City Lives - Banking ...
sounds.bl.uk/Accents-and-dialects/Banking-and.../021M-C0409X0134XX-0007V0
Talks about Jiro Shirasu and Japanese connection: Peter Spira, Andrew Smithers, Christopher Purvis, Stephen Kaempfer, Martin Edelshin and Andrew Dalton.

匿名 さんのコメント...

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:WjNJsiqbhqUJ:sounds.bl.uk/related-content/TRANSCRIPTS/021T-C0409X0134XX-0000A0.pdf+&cd=1&hl=en&ct=clnk&gl=jp

匿名 さんのコメント...

Fallacies in the Allied Nations' Historical Perception as Observed ...
https://books.google.co.jp/books?isbn=0761868100
Henry Scott Stokes - 2016 - ‎Preview - ‎More editions
My Impressions of Jiro Shirasu Jiro Shirasu was born in 1902. After graduating from Kobe No. 1 High School in ... him to enjoye a luxurious lifestyle till the end of his life. I didn't like Jiro so much because he was arrogant Memorable People 107.

匿名 さんのコメント...

Typhoon in Tokyo: The Occupation and Its Aftermath - Page 140

https://books.google.co.jp/books?id=v2weAAAAMAAJ
Harry Emerson Wildes - 1954 - ‎Snippet view - ‎More editions
The Occupation and Its Aftermath Harry Emerson Wildes ... Most of these were amateurs in politics and were cordially disliked by the men whom they issued orders in the name of Yoshida. One of the more important was Jiro Shirasu, fifty-year-old Cambridge graduate and son-in-law of Aisuke Kabayama, prewar professional friend of American and British diplomats.

匿名 さんのコメント...

マッカーサーを叱る件は、武相荘は否定し、白州正子らの著作には記述され、ドラマ化したNHKは白州家の全面協力を強調していて、正確なことを知っている人が誰なのかもわからない。

あまりにもかっこいいので白州次郎さんが特に目立つが、たいへん多くの方が終戦の混乱期に努力されてきたことの一端が・・・

Weekly Report on Japan to the Far Eastern Commission
books.google
United States. Dept. of the Army. Civil Affairs Division - 1951 - ‎Read - ‎More editions
Finance Minister Hayato Ikeda left for the United States on 25 April accompanied by his interpreter and personal envoy of Prime Minister Yoshida, Jiro Shirasu. Ikeda told the press that he would not elaborate any special policies while in the United States as "it is not good practice to conduct negotiations directly with the United ...

匿名 さんのコメント...

西村熊雄 白洲次郎

匿名 さんのコメント...

’52 coup plot bid to rearm Japan: CIA
War crimes suspects linked to G-2 wanted Yoshida dead, Hatoyama in
BY JOSEPH COLEMAN
THE ASSOCIATED PRESS

MAR 6, 2007

Declassified documents reveal that Japanese ultranationalists with ties to U.S. military intelligence plotted to overthrow the Japanese government and assassinate the prime minister in 1952.

The scheme — which was abandoned — was concocted by militarists and suspected war criminals who had worked for U.S. Occupation authorities after World War II, according to CIA records reviewed by AP. The plotters wanted a rightwing government that would rearm Japan.

The CIA files, declassified in 2005 and publicized by the U.S. National Archives in January, detail a plot to oust the pro-U.S. prime minister, Shigeru Yoshida, and install a more hawkish government led by Ichiro Hatoyama.

The CIA, in papers released under an act of Congress to declassify documents related to Japanese war crimes, said the plotters were led by Takushiro Hattori, a former private secretary to Gen. Hideki Tojo, the wartime prime minister hanged for war crimes in 1948.

Two CIA documents said the plot reportedly had the support of 500,000 people in Japan, and that the group planned to use a contact who controlled a faction inside the National Safety Agency — a precursor to the Defense Ministry — to help launch the coup.

The files reviewed by the AP strongly suggest the Americans were unaware of the plot until after it had been dropped. The plot was developed after the Occupation ended in April 1952, and the CIA files say American financial support for Hattori’s group had dried up by then.

Still, the documentary evidence of the plot illustrates the violent potential of the rightwing, anticommunist cabal that had worked under the Occupation authority’s G-2 intelligence wing in the early days of the Cold War in the late 1940s and early 50s. The CIA operated separately from G-2.

“Since the beginning of July 1952, plans for a coup d’etat have been initiated among a group of ex-purgees, including former military officers. The leader of the group is ex-Col. Hattori Takushiro,” said an Oct. 31, 1952, report, which claimed, “this report is the first to mention a definite rightist plan involving violence.

“The original plan of the group was to engineer a coup d’etat, including the assassination of Prime Minister Yoshida Shigeru on account of his hostile attitude toward depurgees and nationalists,” the CIA document said.

匿名 さんのコメント...

According to the document, Hattori colleague Masanobu Tsuji talked the group out of the coup, urging it to focus instead on countering the Socialist Party. The files say the group then decided it would not stage a coup as long as Yoshida’s conservative Liberal Party remained in power.

However, the group still considered violence an option, the files say.

“The group is considering the possibility of some minor assassination attempt in lieu of a coup d’etat,” the Oct. 31, 1952, document said.

Hattori and others had worked under the aegis of Maj. Gen. Charles Willoughby, the anticommunist G-2 chief. During the Occupation, Willoughby was considered the second-most powerful American after his boss, Gen. Douglas MacArthur.

Some group members were considered choice war crimes trial targets after the war.

Tsuji had been wanted for involvement in the Bataan Death March of 1942, in which thousands of Americans and Filipinos perished. Another group associate was Yoshio Kodama, a war profiteer and mob boss who was deeply involved in procuring materials — often illegally — for the Japanese military machine.

Neither of them was prosecuted for war crimes.

The Japanese militarists joined U.S.-supported missions to spy on communists in Japan, infiltrate agents into Soviet and North Korean territory, and recruit Japanese mercenaries to protect Taiwan from communist forces in mainland China, declassified documents show.

The CIA files, however, say the operations were riddled with intelligence leaks, hobbled by a lack of competent agents, and deeply compromised by rivalries among the rightists themselves. The agents’ priorities, the documents say, were profits and an eventual resurgence of a militarist Japan.

The assassination plot detailed in the CIA files came at a difficult time for Hattori’s group.

The departure of Willoughby from Japan in 1951 as the Occupation wound down deprived the rightists of their leading American patron and paymaster. Meanwhile, Yoshida was openly hostile to Hattori’s push for rearmament.

“The government attitude toward the Hattori group has been increasingly antagonistic, and the group has lost influence since the departure of Gen. Willoughby,” said a CIA document dated April 18, 1952.

Yoshida was pushed out of office peacefully in 1954 and replaced by Hatoyama, but the ultrarightist dream of resurrecting a militarist Japan never happened. The 1947 Constitution bars Japan from warfare and has never been amended.
https://www.japantimes.co.jp/news/2007/03/06/national/history/52-coup-plot-bid-to-rearm-japan-cia/#.WhnrUdVl_Dc

匿名 さんのコメント...

Weekly report on Japan to the Far Eastern Commission.

Viewability:

https://catalog.hathitrust.org/Record/000078976

匿名 さんのコメント...

http://archive.sltrib.com/article.php?id=4794305&itype=NGPSID

MacArthur aide: U.S. must learn from errors
He says the U.S. should learn from cultural blunders made during its post-WWII occupation

Lennox Tierney, who was on Gen. Douglas MacArthur's staff during the Japanese occupation, says cultural errors by the U.S. can't be hidden in Iraq.

By Matthew D. LaPlante
The Salt Lake Tribune

December 7, 2006 1:20 am
This is an archived article that was published on sltrib.com in 2006, and information in the article may be outdated. It is provided only for personal research purposes and may not be reprinted.
Lennox Tierney was there, on the fifth floor of the Dai-Ichi Insurance Building in Tokyo, where MacArthur held court from 1945 to 1949, on the day Hirohito arrived. Now 93 years old, Tierney fears a brutishness he saw in MacArthur that day is being repeated by Americans involved in today's wars.

But these days, he says, the country can ill-afford such behavior.
In the years that followed the war, MacArthur came to be thought of as an expert in Japanese culture, but that's not what Tierney says he saw in the eminent general.
"He was culturally stupid," says Tierney, Japan's commissioner for arts and monuments during the occupation, now a semiretired professor and museum curator living in Holladay.

"Apology is a very important thing in Japan," said Tierney. "With us, we don't apologize unless we get caught with our hand in the cookie jar, but for the Japanese, there is a very strong sense of what an apology means."
But when the emperor arrived at his office, MacArthur refused to admit him or acknowledge him, Tierney said.
"MacArthur kicked off his shoes and just sat there, smoking his corn cob pipe with his feet up on his desk and didn't say a word," recalled Tierney. "He didn't even invite the emperor into his office."

"It was the rudest, crudest, most uncalled for thing I have ever witnessed in my life."
Tierney considers it fortunate that the general's imperial affront was never made public, as Japan's citizens likely would have been outraged.

匿名 さんのコメント...

Improvised News - 79 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
1966 -
Another set of rumors did not question his ancestry but tied his childhood to Japan: the general was brought up by a Japanese wet nurse; he was born in Kyoto; his mother, an American, was born in Japan. That the general's father was a U.S. Army officer who had spent much of his time in Asia was well known. Since high- ranking Japanese officers sometimes had concubines, it seemed natural that an American officer might have done ...

匿名 さんのコメント...

ぴゅあ ぴゅあ1949:白洲次郎とは何者だったのか(113) - livedoor Blog ...
blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51339278.html
2011/08/22 - 非常に悪い演説原稿を、発音の下手な、妙な調子で読み上げる。それを考えただけで身震いするほどであった。私はこんな心配をホテルで首相に話すと、彼はすぐに日本語で演説することに同意した。 一方、私の同僚の数人が、草稿の原文に ...

匿名 さんのコメント...

https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20161019-OYT8I50039

匿名 さんのコメント...

民主党政権誕生のパトロンは?

匿名 さんのコメント...

日本法思想史研究 - 323 ページ
books.google
長尾龍一 - 1981
二マッカーサーの「正義」この「戦後的自明性」を背景に五年半に互って日本に君臨し、 日本を改造したのが連合国最高司令官 ... マッカーサーの離日に際して坂西志保が「 実に予想外の温情をもって日本の再建のために困難な占領政策を寛容の「文字をもっで ...

匿名 さんのコメント...

Passenger ship sunk in U.S. torpedo attack found 76 years later:The Asah ...
www.asahi.com › ajw › articles
2018/09/05 · Among her passengers were Japan's national team competing in the 1932 Los Angeles Olympics and Jiro Shirasu (1902-1985), a renowned businessman and bureaucrat.

匿名 さんのコメント...

Prince and Princess Chichibu: Two Lives Lived Above and Below ...
books.google.
Dorothy Britton · 2009 · Biography & Autobiography
That was why I wanted to see my dear friend Masako Kabayama as soon as possible. No sooner had ... Hartridge School in New Jersey, where Masako was a student, was a strict, Catholic boarding school. Masako was ...

匿名 さんのコメント...

books.google
Japanese Industrial Governance: Protectionism and the ...
Yul Sohn · 2005 · Political Science
Ford proceeded to negotiate with the City of Yokohama to purchase about 90 acres of land for the extension of the plant. The city treated Ford's request favorably, for several reasons. Ford was a ...

The Far Eastern Review: engineering commerce, finance
books.google
at the Negishi Plant. SALE AND FRAZAR'S FORD ASSEMBLY PLANT AT N EGISHI, YOKOHAMA. The Power Plant of Sale and Frazer's Ford Assembly Plant at Negishi; 150 HJ'. Motor road along the North Coast of Java. Notice the. these are finished at the plant. An attempt is being made to ...

フォード・モーター - Wikipedia
またアジア進出も早くから行われ、1925年2月には、世界五大国の1つであり、自動車市場の成長が期待 されていた日本の横浜市緑町に、日本法人の「日本フォード」が組み立て工場(日本フォード子安工場 ...

匿名 さんのコメント...

British Documents on Foreign Affairs--reports and Papers from ...
books.google
2000 - ‎
Born 1902. Graduated at Cambridge and speaks English perfectly.Was on the editorial staff of the Japan Advertiser before the Pacific war and had important connexions in the Japanese commercial world besides many influential contacts both in Europe and the United States.

匿名 さんのコメント...

The B-29 Superfortress: A Comprehensive Registry of the ... - Page 216
books.google
Robert A. Mann - 2015
... Tokyo Special Chrome Steel Works Hodagaya Substation Kamagawa Steam Power Plant Takeshina Freight Yards Yokohama Station, Junction, Overpass Higashi Yokohame RR Yards Yokohama Dockyard Of Mitsubishi Heavy Industr Asano Dockyard Uraga Dockyard #3 Ford Motor Company ...

匿名 さんのコメント...

山本条太郎 白洲次郎 吉田茂 三井 

匿名 さんのコメント...

まずは、英国が日本において「イギリス」と呼ばれるのは、16世紀以降日本と関係があったポルトガルの言葉でイングランドを指す「Inglez (イングレス)」が語源だとされている。 さらに、江戸時代にはオランダ語の「Engelsch(エングルス)」を語源とする「エゲレス」という呼称も広く使用されていた。Nov 7, 2019
www.nli-research.co.jp › detail
英国及びその構成国の国名や国旗の由来を知っていますか?-(その1)国名の由来- | ニッセイ基礎研究所

eikokugo.com › なぜ日本はイギリ...
なぜ日本はイギリスや英国と呼ぶのか? - EIKOKU GO
Apr 4, 2019 · 日本だけが「イギリス」という呼び方をしますが、時々「英国」と言うことも あります。では、「イギリス」と「英国」という言葉の由来は?実際にどちらの方がよく使われる呼び方で、 ...

www.beret.co.jp › imagesPDF
イギリスを 「イギリス」 と呼ぶのはなぜ ?
イギリスという英語はないのだ。 イギリスを 「イギリス」 と呼ぶのは日本人だけで,この呼び名. は海外では 通じない。それではイングランド ...

匿名 さんのコメント...

シネマ映画.com
日本独立の動画配信・視聴
第二次大戦終戦直後、GHQに占領された日本において、GHQと互角に渡り合った二人の男がいた。その名は、白洲次郎(浅野忠信)と吉田茂(小林薫)。終戦の年の晩秋、外務大臣になって間 ...
1週間前

匿名 さんのコメント...

https://www.theguardian.com › sep
The real Goldfinger: the London banker who broke the world | Money | The Guardian
2018/09/07 — Warburg's new bond issue – these bonds became known as “eurobonds”, after the example set by eurodollars – was led by Ian Fraser, a Scottish war hero turned journalist turned ...

https://www.euromoney.com › article
Euromoney The bankers that define the decades: The SG Warburg alumni interview
2019/06/21 — Peter Spira (PS) joined SG Warburg in 1957 and was appointed vice-chairman alongside ... The year after Siegmund's visit, Ian Fraser and I were sent out to Japan where we later ...

https://www.euromoney.com › article
Euromoney The bankers that define the decades: Siegmund Warburg
2019/06/21 — Peter Spira was at SG Warburg from 1957 to 1974, latterly as vice-chairman. ... By then, so had another of the architects of the inaugural Eurobond, Ian Fraser, who had been ...

匿名 さんのコメント...

https://brill.com › book › edcoll › B...
Lord (Eric) Roll of Ipsden (1907–2005), S.G.Warburg and Shirasu Jiro¯ - Brill
Eric Roll was fond of telling the story of how Siegmund Warburg and Henry Grunfeld persuaded him to join S.G. Warburg & Co. As. Eric's official career was ...

https://www.independent.co.uk › news
Lord Roll of Ipsden | The Independent
2005/04/02 — Eric Roll, economist, civil servant and banker: born Nowosielitza, ... S.G. Warburg & Co 1967-75, chairman 1974-83, joint chairman 1983-87; ...

https://en.wikipedia.org › wiki › Eri...
Eric Roll, Baron Roll of Ipsden - Wikipedia
Roll was also a director of the Bank of England between 1968 and 1977, chairman of the merchant bankers SG Warburg, and a director of The Times. Roll became ...

https://www.globalcapital.com › lor...
Lord Roll: 'London's oldest banker', dies at age of 97 - GlobalCapital
Lord Roll, a senior adviser to UBS and a former chairman of SG Warburg, ... in the City of London, Eric Roll had a 70 year career that spanned academia, ...

https://sounds.bl.uk › Oral-history
Roll, Eric (8 of 9) National Life Stories: City Lives - Banking and ...
Interview with Eric Roll, Baron Roll of Ipsden, economist, public servant and banker. ... S.G. Warburg plc offices, London ... ER joined Warburgs in 1967.

https://www.theguardian.com › apr
Lord Roll of Ipsden | Politics | The Guardian
2005/04/01 — ... were later ennobled by a grateful British government, Eric Roll, ... chairman or joint chairman of the merchant bankers SG Warburg for ...

https://books.google.co.jp › books
Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. VI
2007 · Biography & Autobiography
When Eric Roll joined S.G. Warburg in 1967, he was introduced by Siegmund Warburg at an early stage to Shirasu Jiro ̄ and Miyazawa Kiichi, and they remained

匿名 さんのコメント...

https://www6.nhk.or.jp › detail
放送90年ドラマ「経世済民の男 鬼と呼ばれた男~松永安左ェ門」 | NHKドラマ
【政・財界の大物たち】 吉田茂(伊東四朗) 池田勇人(高嶋政伸) 白洲次郎(高川裕也) 池田成彬(宝田明) 近衛文麿(利重剛) 東条英機(大竹まこと) ...


https://www.tv-tokyo.co.jp › ikuta
白洲次郎(生田斗真)|キャスト|アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~|テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ|出演
2020/05/31 — 白洲次郎 生田斗真. 1902年~1985年。吉田茂の腹心。イギリスに留学し、英語が堪能。家業が倒産し、記者や貿易会社など職業を転々とする中、吉田と ...

https://www.tv-tokyo.co.jp › yoshid...
アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~|テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ|出演:笑福亭鶴瓶 生田斗真|テレビ東京
2020/05/31 — さらに吉田茂の右腕として、日本の独立復興のために奔走、アメリカから“従順ならざる唯一の日本人”と呼ばれた白洲次郎を、大河ドラマ『いだてん』(NHK) ...

テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ 「アメリカに負けなかった男 ~バカヤロー総理吉田茂~」生田斗真(白洲次郎)
YouTube · テレビ東京公式 TV TOKYO
2020/02/18

テレビ東京宣伝部 Twitter પર: "/ #生田斗真 が 白洲次郎 役で出演!✨ \ 混乱を極めた激動の時代に、戦後日本の“復興”へ命を懸けて邁進する吉田茂(#笑福亭鶴瓶)と周囲の人物たちの戦いを、娘 ...
2020/02/19

https://natalie.mu › ... › 笑福亭鶴瓶
鶴瓶が吉田茂、生田斗真が白洲次郎に扮した「アメリカに負けなかった男」再放送 - ナタリー
2020/05/22 — 麻生和子が娘の視点から父親の姿をつづった「父 吉田茂」を原案としており、「空母いぶき」の若松節朗が監督を務めた。鶴瓶が吉田茂、生田が白洲次郎に扮 ...

https://natalie.mu › ... › 笑福亭鶴瓶
笑福亭鶴瓶、白洲次郎役の生田斗真に脱帽「英語ペラペラペラペラ!」 - ナタリー
2020/02/19 — 笑福亭鶴瓶、白洲次郎役の生田斗真に脱帽「英語ペラペラペラペラ!」 ... スペシャルドラマ「アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~」の取材会 ...

匿名 さんのコメント...

1927 Hartridge  Masako Kabayama

匿名 さんのコメント...

The Wisconsin Blue Book - 84 ページ
books.google
1960 · ‎全文表示
Eastern Background Arthur MacArthur was born in Glasgow , Scotland , January 26 , 1815 , the son of Arthur and Sarah MacArthur . ... After he left Wesleyan , he studied law in New York City and was admitted to the New York bar in 1840.

MacArthur: America's General - 2 ページ
Mitchell Yockelson · 2011
father, also named Arthur, and later known as Judge MacArthur, was the patriarch ofthe family. He was born onJanuary 26, 1817, in Glasgow, Scotland. Coincidentally, his mother's surname was also MacArthur. As the story goes, ...

Wisconsin Biographical Dictionary - 249 ページ
Caryn Hannan · 2008
MaCARTHUR, ARTHUR (1815-1896) — Acting governor of Wisconsin (1856), was born in Glasgow, Scotland, on January 26, 1815, ... MacArthur attended Wesleyan University in Middletown, Connecticut, and then studied law in New York City.

B0000CHWB9 さんのコメント...

The high personnel of SCAP takes on, like a cloak, much of MacArthur's own idealism. I heard one official say, somewhat sadly, 'When you ask an educated Japanese what he thinks we have done for Japan, he is apt to thank us for sending in food— for having kept him from starvation. Of course this is important but I do wish the Japanese would have more appreciation for the way we are reforming them!'

匿名 さんのコメント...

日本法思想史研究 - 323 ページ
books.google
長尾龍一 · 1981
マッカーサーの離日に際して坂西志保が「実に予想外の温情をもって日本の再建のために困難『な占領政策を寛容の二文字をもって推進して下さいました。日本人お心から元帥に心服し云々」と述べたように(『読売新聞』一九五一・四・二二)、占領政策の成功の ...

中央公論 - 第 89 巻、第 7~9 号 - 78 ページ
books.google
1974
マッカーサーの離日に際して坂西志保が「実に予想外の温情をもって日本の再建のために困難な占領政策を寛容の二文字をもて推進して下さいました。日本人も心から元帥に心服し云々」と述べたように( W )、占領政策の成功の最大の原因はこの寛容政策にあっ ...

戦後日本の国際文化交流 - 194 ページ
books.google
戦後日本国際文化交流研究会 · 2005
7 財団は国際文化会館設立のために約 2 億 4 千万円の助成の用意があったが,日本側で 1 億円の民間募金を募ることが条件とされていた ... 川端康成,小泉信三,前田多門,松方義三郎(松方三郎と同一人物) ,松本重治,松下栄,中野好夫,南原繁,斎藤勇,坂西志保, ...

戦後日米関係とフィランソロピー: 民間財団が果たした役割 1945 ...
books.google
山本正 · 2008
( 5 ) 1 国際文化会館まず、戦後の日米関係を再構築し、その深化に重要な役割を果たしたという意味で特筆すべきものは、五二年 ... とロックフェラー財団を核としたアメリカのフィランソロピーと、樺山愛輔、渋沢敬三、高木八尺、( 2 )前田多門、松本重治、 ...

匿名 さんのコメント...

Toledo Blade: Wednesday, April 27, 1949. Drive Planned To ...
books.google
Toledo Blade · ‎1949/04/27 · ‎新聞 · ‎全文表示
clergyman who recently conferred with him in Tokyo. General MacArthur believes Japan is "ripe and ready for Christianity" and wants to see "its 80,- 000,000 people gospelized within the next 25~years," the Rev. Dr. Harry J. Hager, ...

The Way Of The World. - Page 4
books.google
Toledo Blade · ‎30 Apr 1949 · ‎Newspaper · ‎Full view
Douglas MacArthur in Japan, quotes the general as saying Japan "is ripe and ready for Christianity" and that he wants to see "its 80 million people gos- pelized within the next 25 years." This checks with what I heard General MacArthur ...

The Making of the Cold War Enemy: Culture and Politics in the ...
books.google
Ron Theodore Robin · 2003
The Japanese reeducation program and, subsequently, the Korean offspring, espoused strong ties between Christianity and democracy. Indeed, historian D. Clayton James has observed that MacArthur was obsessed with christianizing Japan, ...

Douglas MacArthur: Warrior as Wordsmith - Page 60
books.google
Bernard K. Duffy, ‎Ronald H. Carpenter · 1997
... nationalistic and religious sentiment.2" Communism was dark , insidious , and foreboding in every way that democracy and Christianity were luminous , forthright , and hopeful . MacArthur's rhetoric exhibited the religious fervor of ...

Christian Church. Gaining In East. Board Of Foreign Missions ... - Page 2
books.google
Ellensburg Daily Record · ‎1 Nov 1947 · ‎Newspaper · ‎Full view
Japan is a vacuum which will be filled either by Christianity or by Communism, Dr. Herick Young, executive secretary of the ... the manpower or the equipment to demonstrate to that nation how an efficient democratic government operates.

Pandit Nenn. - Page 2
books.google
St. Joseph Gazette · ‎16 Oct 1950 · ‎Newspaper · ‎Full view
"Japan presents a situation to tho Christian church that we haven't faced In a 1,000 years. ... a divine destiny and when those beliefs were shattered, It left a vacuum Into which rushed two great forces— communism and Christianity.

Sew Parties Ire Formed In Japan Warlord. Lord Groups Are Dissolved.
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The Windsor Daily Star · ‎15 Oct 1945 · ‎Newspaper · ‎Full view
Communist Leader Yoshio Shiga, recently released under MacArthur's orders freeing Japanese political prisoners, was reported by Domei Agency to be urging establishment of democracy "in the American way." Japanese sources said the ...

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Japs Want More Bibles Says Gen. Macarthur - Page 7
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The Calgary Herald · ‎9 Apr 1949 · ‎Newspaper · ‎Full view
MacArthur. NEW YORK (N.A.N.A.1— "Insatiable"" demand for Bibles is reported from Japan by no less an authority than Gen ... Bible Society In emphasizing the constructive work b«ing done to build Christian democracy throughout the world.

Bible Bible War? Opens. Iv - Page 3
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Greensburg Daily Tribune · ‎16 Oct 1950 · ‎Newspaper · ‎Full view
He said "I have many times publicly stated my belief that Christianity through the Sacred Scriptures offers to tho Japanese people a sure and stable foundation on

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LIFE - 1949/06/27 - 49 ページ
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第 26 巻、第 26 号 · ‎雑誌 · ‎全文表示
FRANCIS' RIGHT ARM, ENCLOSED IN A GOLD AND GLASS CASE, IS REVERENTLY HELD BY PRIEST DURING ITS SHOWING IN NEW YORK ... FRANCIS. XAVIER. Once again it is raised on high in fight against Japanese paganism An ancient,' awe-inspiring relic ...

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The Rev. Billy Graham said here yesterday that General of the Army Douglas MacArthur had once told him that he turned down an offer by Emperor Hirohito to make Japan a Christian nation. The offer was rejected, Mr. Graham said, because the general believed it was wrong to impose any religion on a people.
https://www.nytimes.com › archives
General Told of Barring Offer To Create a Christian Japan - The New York Times


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Machiavelli's Children: Leaders and Their Legacies in Italy and Japan
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Richard J. Samuels · 2019
After retiring from government service, Ambassador MacArthur became advisor to the Unification Church-related World Media Association and a member of the editorial advisory board of the Unification Church-owned Washington Times.

Machiavelli's Children: Leaders and Their Legacies in Italy and Japan
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Richard J. Samuels · 2019
Nakasone's Institute for International Policy Studies was funded by the Sasakawa Foundation and directed by the late Professor Sato Seizaburo, author of the hagiographic Sasakawa biography. 118. Economist, 11 June 1994. 119.