2015年1月27日火曜日

後藤健二と有田芳生と石破茂@八頭郡の黒い闇






株式会社汐文社(ちょうぶんしゃ)は、日本の出版社である。本社所在地は東京都千代田区

平和運動に従事していた吉元尊則が京都にて設立。1976年11月に東京を本社として再度設立し、法人化。京都時代に出版したものも、重版して在庫のあるものは販売している。おもに児童向けの教育書籍やドラマ・映画のノベライズ本の出版を手掛けている。
週刊少年ジャンプ』で連載されていたものの、広島の原爆という題材のため集英社では単行本が発売されなかった中沢啓治の『はだしのゲン』の単行本を1975年に発売し、同社の看板作となった。以後も絵本やノベライズを含む中沢作品のほぼ全てを一手に引き受ける。
部落解放同盟を批判する論調の本を刊行しているため、北九州市では、部落問題研究所の刊行物とともに、汐文社の発行図書が公共施設から排除されたこともある(1976年10月)[1]
2007年、60歳の若さで吉元は社長を退任。現在は政門一芳がその責を引き継いでいる。

2013年12月26日に株式会社KADOKAWAが発行済全株式を取得したと発表、KADOKAWAグループの一員となった[2]。KADOKAWAグループ編入後、本社所在地は、文京区から千代田区(第二角川ビル)へ移動した。



ちょっと種明かししちゃいましょうかねえ・・・(爆wwwwww







米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本の、ロシア同時通訳エッセイストノンフィクション作家小説家である。
著作には、『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』、『魔女の1ダース』、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、『オリガ・モリソヴナの反語法』などがある。
東京都出身。明星学園高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。
生い立ち日本共産党常任幹部会委員だった衆議院議員米原昶の娘として東京都中央区聖路加病院で生まれる。父方の親類に有田芳生がいる[1]
大田区立馬込小学校3年生だった1959年昭和34年)、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキア首都プラハに赴任することとなり、一家揃って渡欧した。
9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する外国共産党幹部子弟専用の8年制ソビエト大使館付属学校に通い、ロシア語で授業を受けた。
チェコ語による教育ではなくソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子供達が通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。
クラスの人数は20人を越えると二つに分けるなど、きめ細かい教育だったが、最初の約半年間は、教師や生徒が笑っていても言葉がわからず、「先生の話すことが100パーセント分からない授業に出席し続けるのは地獄」だったと述懐している。
1964年昭和39年)11月、ソビエト大使館付属学校を第7学年で中退し日本に帰国。1965年1月、大田区立貝塚中学校第2学年編入。日本の試験が○×式あるいは選択式であることにカルチャーショックを受けた。ソビエト学校はすべて論述試験だったからである。プラハの春1968年)が起こったのは日本へ戻った後の、18歳のときだった。
ロシア語を学ぶ1966年4月、明星学園高等学校入学、1969年3月に卒業。同年4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。1971年3月に同校を中退し、同年4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学、この頃に日本共産党入党。1975年3月に同大を卒業し、同年4月、汐文社に入社。1976年3月、同社を退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月、同修士課程修了。大学院在学中の1985年昭和60年)、「東大大学院支部伊里一智事件」に連座して党から除籍処分を受けた[要検証 ]が、死亡時『しんぶん赤旗』訃報欄には、党歴無記載ではあるが掲載された。後年(2002年5月13日)、逮捕直前の佐藤優に米原は「私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかとほんとうに怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」[2]と語っている。また、日本共産党から離れた後「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、カール・マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」とたびたび語っていた[3]
日ソ学院(現在の東京ロシア語学院)ロシア語講師、また1990年まで文化学院大学部教員としてロシア語を教える。かたわら1978年頃より通訳翻訳に従事、1980年ロシア語通訳協会の設立に参画し、初代事務局長となる。
TBSのテレビ番組『シベリア大紀行』という番組で、厳寒期の平均気温がマイナス60度になるヤクーツクを取材し、厳冬期のシベリアを一万キロにわたり横断。この経緯をテレビ番組のみならず、児童向けの『マイナス50°Cの世界 寒極の生活』(1986年)[1]として著した。
通訳として1983年昭和58年)頃から第一級の通訳として、ロシア語圏要人の同時通訳などで活躍。特にペレストロイカ以降は、ニュースを中心に旧ソ連・ロシア関係の報道や会議の同時通訳に従事する。
1989年から1990年まで、TBS「宇宙プロジェクト」で通訳グループの中心となり、ソ連側との交渉にあたる。TBSの特別番組「日本人初!宇宙へ」ではロシア語の同時通訳を担当。こうした活躍が同時通訳、ひいては米原の存在を一般に広く知らしめることになった。
1990年1月、エリツィン・ソ連最高会議議員(当時)来日にあたって、随行通訳を務める。エリツィンからは「マリ」と呼ばれ、大変可愛がられていた[4]
1992年平成4年)には同時通訳による報道の速報性への貢献を評価され、日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)受賞。1995年から1997年まで、さらに2003年から2006年の死去まで、ロシア語通訳協会会長を務める。また同時通訳の待遇改善にも尽力した[5]
1997年平成9年)4月から翌年3月まで、NHK教育テレビ『ロシア語会話』で講師を務める。
作家として1995年平成7年)に『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年)で読売文学賞を、1997年平成9年)に『魔女の1ダース』(1996年)で講談社エッセイ賞をそれぞれ受賞。
1980年代後半以降、東欧共産主義政権の没落やベルリンの壁崩壊さらにはソ連の崩壊を、通訳業の現場にいて肌で感じ、プラハのソビエト学校時代の友人たちの消息が気になっていた。親しかったギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ボスニアボシュニャク人のヤースナの級友3人を探し歩き、消息を確かめた記録『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。選考委員の西木正明は、「恐ろしい作品。書き飛ばしているのに、それが弊害になっていない。人間デッサンを一瞬に通り過ぎながら、人物が行間からくっきり立ち上がってくる。嫉妬に駆られるような見事な描写力だ」、と評価している。
2003年平成15年)には、長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)で、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。選考委員を務めた池澤夏樹は、 若い夢とイノセンスの喪失を語りながら、暗い社会の中、老女オリガ・モリソヴナの躍動感で「子供たちはその光を受けて輝」いていると述べ、「ある天才的な 踊り子の数奇な運命を辿ると同時に、ソ連という実に奇妙な国の実態を描く小説であって、この二重性が実におもしろい」、と評価した[2][3]
晩年晩年は、肉体的にも精神的にも負担の多い同時通訳からは身を引いて作家業に専念した。またTBSのテレビ番組『ブロードキャスター』にコメンテーターとして出演していた。
卵巣癌を患い除去したが1年4ヶ月で再発し、2006年平成18年)5月25日に神奈川県鎌倉市の自宅で死去したことが同29日に報道された。享年56、戒名「浄慈院露香妙薫大姉」。死亡時には週刊誌、『サンデー毎日』で『発明マニア』を、『週刊文春』で『私の読書日記』を、それぞれ連載中であった。また、生前最後の著作は『必笑小咄のテクニック』(2005年)となった。
死亡後の7月7日には、日本記者クラブにて「米原万里さんを送る会(送る集い)」が行われた。
エピソード下ネタをこよなく愛することで有名。徹子の部屋に出演した際、黒柳徹子が米原の著書に出てくる瞳孔に関する有名な下ネタを紹介したために視聴者に衝撃を与えた。
その他の趣味は駄洒落、そしてと暮らすこと。親しい友人のイタリア語同時通訳者の田丸公美子も駄洒落と下ネタが得意で、米原は田丸に自分の渾名「シモネッタ・ドッジ」なる称号を献上、田丸は米原を「え勝手リーナ」(エカテリーナ)と呼んでいた。
佐藤は「文藝春秋」2008年9月特別号において、米原に橋本龍太郎から関係を迫られたと聞いたとする記事を掲載した。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。この記事はのちに『インテリジェンス人間論』にも掲載された[6]。掲載時に両者とも故人だったためコメントは得られていない。
家族父親は衆議院議員米原昶、祖父は鳥取県議会議長、貴族院議員、鳥取商工会議所会頭などを務めた米原章三
実妹のユリは作家・戯曲家の井上ひさしの妻である。万里は死亡時まで、井上が会長を務める日本ペンクラブの常務理事であった。



米原 昶(よねはら いたる、1909年2月7日 - 1982年5月31日)は日本政治家。元衆議院議員日本共産党公認、3期)[1]日本共産党幹部会委員。
 鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭町は江戸時代から宿場町として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号呉服類や小間物の商いをしていた[2]。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼ社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世 哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。
その後も共産党の活動を続け、1949年第24回衆議院議員総選挙鳥取県全県区から同党の公認候補として出馬しトップ当選を果たす。所謂「五〇年問題」により党内が所感派国際派に分裂する中、再選を期して臨んだ1952年第25回衆議院議員総選挙で落選、以後同選挙区から2度立候補するが何れも当選には至らなかった。鳥取県内の選挙区から立候補して当選した共産党国会議員は、現在に至るまで米原のみである。
1959年から1964年までの5年間、『平和と社会主義の諸問題』誌編集委員として党から派遣[3]、家族とともにチェコスロバキアプラハへ赴任する[4]1967年の都知事選挙では共産党推薦候補となるも、社会党の呼び掛けに応じ出馬を取りやめ美濃部亮吉候補に一本化する(当選者は美濃部)。
1969年第32回衆議院議員総選挙東京2区に転じ、17年ぶりに当選を果たす。前回に続いて共産党が躍進した1972年第33回衆議院議員総選挙でも当選するが、1976年第34回衆議院議員総選挙にて次点に終わる。以後は地盤を榊利夫に譲り政界からの引退を表明。
1982年5月31日、筋萎縮性側索硬化症により東京都渋谷区代々木病院にて死去。73歳。


米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本実業家政治家。鳥取県多額納税者[1]。元鳥取県議会議員、貴族院議員鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。
 鳥取県八頭郡河原町(いまの鳥取市)に生まれた。実父の範七は、1885年に県会議員となったが[2]1890年病没、その後家運は衰退した[2]
高等小学校を終えると倉吉農学校(現倉吉農業高等学校)に入った[3]。17歳の春同校を卒業すると、若桜小学校で僅かの間代用教員を勤めた[3]
1900年9月東京農大に入学、1903年卒業、続いて早稲田大学に入学[3]。この頃米原は植村正久に心酔し、九段の教会に通ってクリスチャンとなり、タバコを絶ちピューリタンとして真剣な信仰生活に入った[3]
後にキリスト教から離れるが、彼の生涯には深い影響を与えるものになった[4]
智頭の山林地主米原家の長女と結婚[4]
1906年7月早大専門部政経科を卒業すると直ちに帰郷して家業の林業に従事した[3]
政治・経済界への進出山林事業の近代化にのり出し、八頭木材会社の経営に参加した[4]。ついで銀行業にも目をむけ、大正鳥取銀行の創設に参画し、役員として経営にあたった[4]
1911年智頭村会議員になってから、1923年鳥取県会議員となり、1928年には県会議長となった[4]。さらに1932年貴族院議員にもなった[5]
1930年、県東部のバス・タクシー八社を合併して、日ノ丸自動車株式会社を発足させた[5]。その後1944年までに二八社を統合して、全県バス網を一本化した[5]
1938年、丸由百貨店(現鳥取大丸)を設立して、その社長になった[5]。一族の由谷正太郎の発議した事業だったが、当時は町ともいえなかった鳥取駅前に位置を定めたのは、米原の意見によることだった[5]
1939年鳥取新報、因伯時報、山陰日日新聞の県内三紙を合同、日本海新聞を創立して初代社長となった[6]
1958年日本海テレビを設立。
晩年1967年10月19日、鳥取市内の病院で死去。
1969年9月、鳥取市議会で6人目の名誉市民に選ばれた。







肝心のエントリがスルーされてる件。(爆wwwwwwww




















、、、(爆wwwwwwwwwwwww

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

女子大生サマナが暴れているそうです(爆w

http://www.asahi.com/articles/ASH1W45NRH1WOIPE00M.html

愛知県名古屋市昭和区山花町付近にはお寺がたくさん・・w

善竜寺 名古屋 本願寺派

オマケで・・何やら見たことある県名市名ばかりが!(爆w

http://www.weblio.jp/content/%E5%96%84%E7%AB%9C%E5%AF%BA

ミネ さんのコメント...

肝心がスルー

前にボンゾのこと書いてたよなぁ と幾らググっても出なかった日を思い出させまふ←未だ

たしかにゲルは里芋顔だよね
dark eddoeとかいえば恰好良かったりするのかな

匿名 さんのコメント...

大麻栽培禁止 6割が賛成
www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/4044527251.html

智頭町で大麻草を栽培していた会社の代表らが、大麻所持の疑いで逮捕・起訴された事件を受けて、鳥取県が行った県民アンケートの結果、大麻草栽培を全面的に禁止する県の方針に60%近くが賛成し、県は条例の改正案を県議会に提出することにしています。
県の許可を受けて智頭町で大麻草を栽培し、食品などを作る取り組みをしていた会社の37歳の代表は、栽培していたのとは別の乾燥大麻を自宅に隠し持っていたとして、従業員2人とともに大麻取締法違反の疑いで逮捕、起訴されています。
事件を受けて県は、県内での大麻草の栽培を一切、認めないことや、国が許可を出すけしの栽培を規制する方針を打ち出して、954人の県民を対象に、今月10日から17日までアンケートを行い、78.8%にあたる752人から回答を得ました。
その結果、県の方針に「賛成」が59.4%、「反対」が13.3%、「どちらとも言えない・わからない」が27.3%でした。
また、「大麻草の栽培地があると乱用薬物に関心がある人の流入につながると思うか」という質問には、「大いにそう思う」、「そう思う」という回答が、合わせて82.2%となっています。
アンケートの結果を受けて、県は大麻草の栽培を一切、認めないことなどを盛り込んだ、薬物濫用防止条例の改正案を、今月25日に開会する11月定例県議会に提出することにしています。
11月18日 20時18分

大麻栽培禁止に賛成とは言い切れない方々も意外と多い。