2018年1月10日水曜日

Remember 漢城条約

漢城条約(かんじょうじょうやく)とは、1885年(明治18年)1月9日日本李氏朝鮮の間で締結された条約。「漢城」は朝鮮の首都で現在のソウル特別市甲申政変後の日朝間の講和を目的に締結された。日本側全権大使は井上馨、朝鮮側全権大臣は金弘集であった。
甲申政変に関する条約は、他に日本が清国と締結した天津条約がある。
条約の内容第一款 朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明すること。謝罪使節として徐相雨ドイツ人外務顧問のメレンドルフが来日した。
第二款 日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補填として、朝鮮国より11万円を支給すること。壬午事変時よりも被害者数が膨大になっているので、その分済物浦条約よりも増額されている。
第三款 磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正しく処罰すること。済物浦条約の例に倣って、20日以内の逮捕が約されている。
第四款 日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を支給し、工費に充てること。当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用いるという修正案に改めた。
第五款 公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。済物浦条約第五款の規定、即ち「兵営を設置・修繕するのは朝鮮国の役目とする」を改めて確認したもの




パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff, 1847年2月17日 ツェーデニック - 1901年4月20日寧波)は、ドイツ言語学者外交官。19世紀後半に朝鮮の国王である高宗の顧問を務め、また中国学への貢献で知られる。また満州語ローマ字表記を考案したことでも有名である。

プロイセン貴族メレンドルフ家の出身。プロイセンの高官ゲオルグ・フォン・メレンドルフの息子。ゲルリッツギムナジウムに通い、1865年にはハレ大学に入学した。ここでメレンドルフは法学東洋学言語学を学んだ。メレンドルフは古典および外国語に対して強い才能を示し、ヘブライ語に熟達したが、その時はまだ東アジアの言語を学ばなかった。

中国での活動

1869年、メレンドルフは研究を中断して、上海の中国海関 (Imperial Maritime Customs Service) に加わるために中国へおもむいた。上海と後に漢口の海関(税関)で働く間、メレンドルフは中国語に熟達し、速やかに言語試験に合格した。しかし、彼はやがて仕事の内容に不満を覚え、1874年には通訳としてドイツの領事館に就くため海関を去り、ついには天津の副領事に任じられた。

天津において、メレンドルフは清国の北洋大臣李鴻章の官房で働く馬建忠を助けた。1879年、メレンドルフは李鴻章がドイツ企業フルカンクルップより武器と軍艦を調達するのを助けている。1881年、メレンドルフはドイツの北京公使マックス・フォン・ブラントとの込み入った関係により、領事職を去った。

朝鮮政府の外交顧問に

1882年7月に李氏朝鮮で起こった壬午軍乱は、清国軍による興宣大院君(国王高宗)の天津への連行・拉致で幕を閉じ、10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した[1][注釈 1]。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏金宏集魚允中がこれに署名した[1]。天津をおとずれていた趙寧夏・金宏集は『善後六策』を李鴻章に提出して軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぐ一方、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した[1]。李鴻章が推薦したのはメレンドルフと馬建忠の兄馬建常(元神戸大阪領事)であった[1][2]。メレンドルフと馬建常は、この年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城(現、ソウル入りし、12月27日、高宗に謁見した[1]。メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった[1]
メレンドルフは速やかに高宗と意を通ずるに十分な朝鮮語を身につけ、まもなく高宗の信頼を獲得した。高宗はメレンドルフを外務協弁(外務次官)に任じ、朝鮮海関(税関)の設立を委ねた。メレンドルフは中国・朝鮮風の「穆麟徳」(朝鮮語発音:モク・インドク、北京官話発音:ムー・リントー)を名乗り、すぐに朝鮮政府で大いに影響力のある人物となった。当時、朝鮮の税関は釜山元山仁川の3港に設けられたが、メレンドルフは閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出している[2][注釈 2]。また、1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城、江華島平壌で大量に鋳造されたが、金玉均らの急進開化派(独立党)はこれに対し猛烈に反対し、その代案として日本からの借款の獲得をめざした[2][3]

メレンドルフは李鴻章や中国海関の総税務司ロバート・ハートの希望に反して朝鮮の独立を主張することを望んだ。彼は中国海関から朝鮮海関を可能な限り独立させたかった。メレンドルフは朝鮮半島に対する中国と日本の影響を均衡させるために、朝鮮がロシア帝国と同盟を組むことを唱えた[3]。しかし、これはメレンドルフの独走とみなされて清国の警戒するところとなり、1885年、李鴻章は朝鮮政府にメレンドルフの罷免を強要した[3]。旧5月、メレンドルフは協弁交渉通商事務・総税務司を解任された[3]1888年高宗はメレンドルフの復職を試みたが、不成功に終わっている。

朝鮮政府での任を去り、メレンドルフは中国海関の仕事に復して、南の条約港・寧波の関税局長官となり、余生を送った。彼は寧波で関税事務の改善に従事したほか、中国学の多くの作品を書いた。1896年1897年の間、彼は英国・アイルランド王立アジア協会の中国支部長を務めた。









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